昭和43年12月1日 月次祭
いよいよ、えー、本年も、最後の月に入りました。えー、十二月という月は、もう、十二月の声を聞いただけで、何とはなしに、んー、忙しい思いが致します。えー、それは、やはり、一年中のことを締めくくらなければなりませんし、そして、お互いの心の中に、すきっとした心で新しい年を迎えたいという願いを持っておるから、なおさらその、おー、出来てなかったところを、おー、そこを、今月中に片付けておかんならんというたような気持ちがあるから、あー、結局、そういうようなことになるのじゃないかとこう思うのですけれども、あー、本当にこの、おー、一年中のことを、振り返らせて頂きますと、んー、様々に、広大なおかげを頂いてまいりましたが、えー、それこそ、信心もできませんのに、このようなおかげを頂いてまいりました。そこで思われることは、あれもお粗末であった、これも不行き届きであった、御無礼であったということばっかりでございます。そこで、えー、私共は、それを、おー、お詫びをする心持で、この十二月をここに、いわば、十二月の月を、私は、お詫びの月にしたいと思うております。はっは、お詫びだけじゃ、おかげ受けられんということはない。詫び、詫びが叶えばおかげになる。ね。いわゆる、詫びれば許してやりたいのが親心じゃと、こう仰るのでございますから、やるまいと思いよったばってんというような事でも、ね。詫びが叶えば頂ける事にもなるわけですから、ね。まあ、言うなら、詫びることも、おかげを頂かせてもらうという、一つの、おー、やってというと可笑しいですけども、やはり、一つのテクニックだと思いますね。お礼を申し上げる。ね。えー、お詫びだけでおかげを頂く。御礼だけでおかげを頂く。または、願いだけでおかげを頂く。ね。けれども、結局、うー、神様の心に通うということなんです。ね。それこそもう、がむしゃらに願う。もう、地団太踏むようにして願う。それこそ、神様をこう、ごうぐるようにして願う。どうぞ、どうぞと言うて願う。やはり、聞き届けられますね。一心が神様に通うのです。けれども、ほんなら、今度は、もう、本当に有難い。もう、こんなおかげ頂いて勿体ない。有難い、有難いと、お礼ばっかり申し上げておきますとです、これはまあ、人間でもそうですね。仕方もないものでも、あげたら、あげん喜びなさるけん、こん次にはまた、なんかいっちょ上げたいという気持ちが致しますようなものです。ね。同時に、詫びるということもそうです。私共は、どうもその、人間、特に私、合楽関係は、この、何ていうですかね、この、詫びるということが、あんまりなされない。いわゆるその、低姿勢。ね。いわゆるその、謙虚さというものに、何時も欠けていると私自身思います。ね。謙虚に、心から詫びる。ね。そこであの、信心をさせていただきましてから、ね。どこを、どげなふうに詫びたらよいかといわれる方は、一生懸命願われたらいい。けれども、信心が、分かってくれば、分かってくるほど、実を言うたら、お粗末御無礼なことに気が付いて参りまして、ね。詫びなければ、実はおられないのである。ね。ですから、例えばです、ね。私共の、お粗末御無礼、ね。まあ言うなら、罪、けがれといったようなものでも、例えば、あー、月次祭のときに、こうやってあの、おー、ここで、文雄先生が致しますね。あの、御祓いを致します。それこそあの、おー、シデのさやぎに清められる思いが致します。ね。何とはなしに、神風の、おー、そこに聞く思いが致します。はーっとこう、自分の頭の上を、あの、おー、シデのさやぎが、さやさやと鳴り渡って、こう、行くときにです。何か、本当に、心から清められた思いが致します。そうでしょう皆さん。ですから、やはり、あの、皆さんあの、お祓いがある前に出てこなきゃいけませんよ。ね。ですからその、お祓いを受けるということが、清められるのではなくて、お祓いを受けるときの気持ちが祓うのです。そうですよ。ね。ですから、もう出来るだけ前に来てからあの、それこそ、さやぎの音を、ね。神風を、ここに聞く思いが致します。心の中に、汚れておるもの、ね。汚いものが祓われる思いがする。その思いがすることが祓われることなんです。ね。私はこの、詫びるということはですね、お詫びをする。もう、心から、繰り返し、繰り返し、御神前に額ずいて詫びている。詫びて詫びて、詫び抜かせて頂いておる、と、神様がお許し下さったという感じがする。ね。許されたという感じがする。それが許されたのです。ね。お水を頂いて身体を清めると、お水を頂く事によって清まるのではない。あの、おー、清らかな水を、身体からこう、生神金光大神様、金光大神様と例えば、かかりますね、修行なんかする方。かかることがおかげ頂くのじゃない。かかるときに、清められるその心がおかげを頂くのです。ね。ですから、私共がね、この十二月という月をです、もう、心から、詫びの月として、私は、おかげを頂たい。ね。許されて、新しい年を迎えたい。清々しいお正月を頂かせて頂くためには、どうでも、今月いっぱいですね、えー、一年中のお粗末御無礼を許して頂いて、そして、えー、新しい年を迎えたいというように、ま、思うのです。それも、私、只今ね、お祭りを奉仕いたします、ちょうど時間、あちらに参りました。参りましたら、えー、先生方も揃って私も、は入りましたら、えらい、食堂のほうから、けたたましいというよりも、何か大きな声がしてるんですよ。今日は、まああの、おー、御造園の御用を頂いた方達。夕方、夕飯のときに、ちょっといっぱい差し上げた。もう今日は、月次祭だから、まあ、一献にしとこうと、それを、好きなもんですから、二献が、三献に重なったわけなんです。それで何か、ちょっと癇に障った事があったんでしょう。ある御信者さんが、癇に障ったわけです。それでああして、火のおらびしよったんです。ね。何ち言いよるとですかと、いいながらね。私は心の中に何か、はっと思うものがあったんです。今からお祭りだというように、例えばね。怒りを含んだ声、ね。例えば、腹を立てておるときの声というものはもう、本当にあの、身がジーンとする思いがしますでしょうが。はっとする思いが致しますでしょうが。これはね、もう、人間のね、腹を立てた時の、その形相という、もう、こらまあ、ものすごいことになってくるんですけれども、心がそうでありますとです。この舞台の中に流れておる血までが濁るといわれております。怒った時には。ね。それが、今からお祭りを仕えようという私のこれに響いてくるのですから、ね。それはやっぱり、はっとするようなものを感じるのが当たり前。
これはまあ、余談ですけれども、えー、如何に腹を立てるということがですね、おかげ、腹を立てる、そういう心がおかげを受けられない元になるのか。それとは反対に、喜びの心は、おかげの受ける心になるかという事をですね、これはまあ皆さん、ね。真に有難いと思う心が、直ぐにみかげの初めと仰るのです。どこから湧いてくるやら分からんような喜びの心。そういう心がある時にはです。ね。きつい事もきつくない。腹が立たなきゃならんようなことを聞いても、それが有難い。夕べもその事を話したんですけども、えー、何時も私は、それをですね、ほんに、私の頂き違いだったと思うのです。もう、二十年も前に、いー、善導寺の教会に、えー、東京から、安芸先生がお話に見えた、講演に。もうお話は、本当にまあ、眠気の付くようなお話だった。その中にですね。もう、とにかく、自分は真面目で話しておられればおられるほど、おほ、可笑しいような話をしなさったんです。あの、この先生が、ある時にですね。その、御信者の家に、宅祭りにおいでられた。ね。もう田舎の、東京も田舎のほうだったらしいです。お祭りも済んで、帰りかけられると、途中から雨になってきた。ちょうどあの、武蔵野が原を通っておるときには、もう土砂降りだった。ね。その時にです、ね。その先生が感じられたこと。ね。はー、本当におかげを頂いておるという事に気が付いたと。土砂降りの中にですね。それこそ、あー、武蔵野が原の、おー、野原をですよね。もうそれこそ、雨の中をすたすたと、その帰っておられるとです。ふっと自分の心に感じたこと。ま、ようも、私の、この鼻が、上をむいておらんで良かったと思われたげな。で、私が、それを何時も、笑い話のときに、それを話すんですけども、昨日はそれが、笑われなかったんです、私。あんまりにも、当たり前のことですから。どうでしょうね、この鼻が、私のつは、ちっとばっかり、上向いとるばってんが、これが本当に、真上向いとったら、どげんなりますでしょうか。それこそ、あーた、土砂降りの中をやっていくなら、もう、それこそ、この土砂降りに合うただけでも死んでしまわねければなるまいけれども、ようも、ようも、天地の親神様は、この鼻を下向けておって下さっておったと気付かれた。思われたんです、本当に。だから、それが本当に有難かった。仕立て下ろしの洋服を着ておったけれども、洋服が濡れることよりもね、鼻が上向いておらなかったという事が有難かったって。もうそれが、とても可笑しい話だったけれども、実を言うたら、そうじゃないて。ね。私共が、こうやって五本の指があったりですよ、目がここに付いておったり、鼻が顔のま真ん中に付いておるとは、当たり前のごと思うとるけれども、ね。この鼻が、べんぷんにき付いとったたら、どうなるでしょう。ね。口が、ひたい口にでも付いとるならどうでしょう。もうそれこそ、これはですね、その人の心なのですから。ね。それを聞いたから、ほんに私も鼻が下むいとるきん良かったちて、有難いものは湧かんけれども、その先生は実感だったんです、やっぱり。ね。ようも、ようも、鼻が下向いておるということがです、有難かったて。それなら、誰でも同じことだから、有難うなからにゃならんばってん、その先生だけに許されているんです。ね。ですからもう、私共がね、そのおかげを感じるということはね、これは、自分が感じようとして感じられるものではないて。神様に許されなければならないという事。ああ、私もいっちょ、ほんに、えー、鼻が下向いとるから、今日はいっちょ、どうでんこうでん、有難くならして頂こうと思うて、ね。さあ、思うても、有難く、許されなければ有難くなれんのです。ね。
夕べ、昨日の、夕べですか、あー、三十日の晩、夕べですね。三十日の、月の最後のお礼を、御祈念の時に併せて私が致します。熊谷さん、私が参っておいでと言うておったらしいです。それをその、初めて実行したとこういうんです。ね。毎日、朝参ってこられる。場合に、また、昼も二度も参られることもある。色んな会合があると。夕べは、そんなわけで、夜の御祈念に、一月の御礼にお参りをされた。大して別に、有難いご理解を頂かれたの、有難いわけでもね、何が有難いか分からんけれども、帰りがけからもう、湧いてくるの、湧いてくるよと、有難いものが湧いてくる。帰っても有難い、もう、何を見ても、聞いても有難い。先生しかも、今朝、目覚ましのおかげを頂きます、その時までです、夕べの感動が残っておって、有難いものが、まあだ、消えておりませんとこう言われる。この有難いものが、果たして、どこから来るのであろうか。ね。いわゆる、許されておられる。そして思われたこと、はあー、親先生は、朝参りもしよるところへ、夜の御祈念に参って来いてん何てんいわっしゃったけれども、ね。しかも、月末の三十日の日は、月の最後の御礼の御祈念だから、参っておいでと言われた事を、先生がいわっしゃったから、お参りしようと思うた事が、まあ、このように有難いのであろうかと、こういわれる。ね。してみると、もう、そこにはね。大坪総一郎が言うたのではないという事を感じておられる。あれは神様のお声であったと思うておられる。その神様の言うておられることを、聞かせて頂いたという事がです、素直に「はい」と言うた事がです。ね。神様が、熊谷貞世の心の中に、どこから湧いてくるか分からない喜びを与えておられるということが分かる。ね。ですから、許されなければ、喜びは分かることがわかる。ね。お願いをする。おかげを頂く。有難いです。ね。今日も、私の、北京時代の、私の骨董の先生です。内山農事の現の社長の一番兄さんに当たれる方。終戦、その後、随分、様々なところを通られてから、もうそれこそ、おー、北京時代と同じ、大変な、あー、その、いわば、財閥でした。成功者でした。それがね。帰られても、やっぱり、次々と、炭坑なさったり、進駐軍の仕事なさったりしてから、いわば、当てられた。けれどもそれが、良かったり、悪かったりであったという話は聞いたんですけども、実は、先生、私は、最近、この、神経痛でですね、疼くんです、足が。ね。だって、この、出て歩いとると、何とはなしに紛れとるけれども、家で、もう家内と差し向かいで話しておるともう、とにかく、もう家内にずーっと揉ませなければ、どんこんされんぐらいに疼くと。ね。ところが、こちらへ参りましてから、私とお話をしている間に、一つも痛まないことに気が付いてですね。ははあー、これは、何か一生懸命なっとるけんで、えー、気が付かんとじゃろと思うてから、その自分の心をはずしてみて、痛まんじゃろかと、思い出すと痛むんですね、何時もなら。痛まんじゃろかと思うてないとに痛むんです。ね。ところが今日は、ここにおらせて頂く夕方まで、全然、痛まじゃったが、こら、不思議なこっじゃあるというわけです。奥さんは金光様の熱心な信者さんである。北京時代から。でも、本人は信心がないのです。けれどもこれは、どう でも自分のいま、小倉でありますが、えー、こら、小倉から、どうでんこうでん、私もいっちょ、お参りをさせていただいて、おかげを頂きたいとこう言うておる。ね。ですから、そういう例えば、おかげを頂くとです、それは信心のなかものでも、何とはなしに、やはり有難いのです。ね。けれども、私共はですね、そういう自分の思いが、思い通りになっていくというような事だけが、何時もあるはずはないです。ね。ですから、言うならば、私共は、何時も、その有難いものを頂きたい為にはです。ね。許されなければ、有難いというものを頂けないという事を、お互いが知らせて頂いてです。一つ、許されなければならないということです。ね。
私共がね、本当に、朗らかになろうと思うても、心が憂鬱だから、明るい心のなろうと思うてもです。自分では、どうにも出来ないのが、私共の心なのです。ね。真に有難いと思う心が、そこに、おかげの心の初めと仰るから、真に、有難いと思おうと思うても、思おうと思うて、有難くなれるもんじゃないと。ね。許されて、有難いことのなるのですから。ね。だから、許されるための信心が、如何に必要であるかということが分かる。それには、何と言うても、許されてない自分を、先ず知らなければいけない。ね。自分のごたる、根性の悪い人間がおるじゃろうか。自分のように、悔やみ性のものがおるじゃろうか。だから、こげなこっじゃ馬鹿らしかけん、もう悔やまんぞ、悔やまんぞと思うても、悔やむ心は、次から次と起きる。不平不足を言いたい心はもう、次から次と、もう、山のように、雲のように湧いてくる。ね。そして、今日も、不平不足の一日であったという事になる。これではね、おかげは頂き難うなる。ね。最近、ここ、四、五日ですか、朝の御祈念のときに、いー、不平を思わん、不平を言わんという、うー、御理解を頂いておる。それで、本気でその、不足を言うようなことがあっちゃならんと、けど、やはりこれはあの、合楽で、本気で信心の稽古をなさっておられるから、それが出来ると思うんですよね。それを、思い出させて頂いたらですね。とても、腹でも立てたり、不平不足でも言えれる自分ではないことが分かってきて、ね。不平不足が言わんで済む、いや、心に不足を思おうとする時、直ぐ、ね。はっと、こう、頭を打ち振っただけでね、不平を思いよった心が、思わんで済むようなおかげを頂いておると。そしてそれに、心掛けさせて頂いたら、今までもう、平気で不足を言うておった。今までもう、当たり前のように、不平を思うておったことをです。もう、あまりに思うておったこと、言うておったことに、改めて気が付かせて頂くと言うておられます。ね。ですからそれに、心がけさせて頂くことによってです。不平を言わんですみ、または、思わんで済むようなおかげが受けられる。そういう、私は、信心がです。ね。今日も一日、不平を不足を、言わんで思わんですんだ一日と。こんな有難いことはなかろうと思うのです。それでまた、神様が喜んで下さらないはずはないから、私は許されるのです。ね。私は、御教えを、本気で忠実に頂かせてもらうということはね、これは、全てのことが許される、おかげの元になるものなのです。それを、この十二月の月という月は、いよいよ、ね。詫びていこう。詫びて詫びて、詫び抜いていこう。自分の心が、それこそ、シデのさやぎのさやさやに、拭き清められた後のような、清々しい、心の上に、ね。新しい年を迎えさせていただく。こういう心で迎えさせた頂こうと。ね。それには、先ず私共が、許されなければならない。ね。今日、私が、その事からですね。大きな声がしておりますから、どうしたと、何を言いよるとかと言いながら、しとったときに、私の心願に頂くのが、あの、シデをですね、もう振りちぎるように、こうやって、誰かが振っておるろころを頂いた。あの、シデの紙が千切れるように、こうやって振っておるところを頂いて、ははー、神様は、これによってです、このお祭りを奉仕させてくださる、いわば、私共の、第一に、私の心の、ね。汚れとか、清めなければならないものを、あれによって、清めてくださってあるんだと思うたから、そういう事が有難いと私は思うた。だからね、お祓いを受けるということは、そういうようなことがるんです。まあ言うなら、それを私共は、お気付けとこういう。いやあ、お祭り前に、どうしたこっじゃろか。今からお祭りだというのに、ね。それこそ、腹立ちの声とか、形相というのは、神様の、お嫌いになることも分かる。ね。腹を立てるということはね。もう、腹を立てたら、血液の中にはね、もう間違いなしに、早死にをする、そのものがね、血液の中に出来てくるそうですよ。新たに。アメリカの何とかという科学者ですかね、医学者かがですね。それを実験した。犬を、おー、この餌をやるわけです。喜ばせる。ね。芯から喜んでおるところへですね、喜んでいるその犬にですね、を、その血を採って調べた。または、もう、餌をやろうとしてから取り上げる。喜んでる、もう、一生懸命犬が腹を立てる。その、腹を立てた時の血を調べた。ところがね、その血の中にね、早死にをする要素が、その血の中に出けておるということ。だからもう、早速この中にですね、腹を立てたり、不平不足を言うたりするとですよ、おかげの受けられない要素が、もう、血の中に、実際に出来るという事をしらにゃいけません。今日は、そこんところをですね。教祖様はね、おかげのあるも無きも我が心と仰るのです。自分の心一つだと。同時に、おかげは、今月今日で一心に頼め、おかげは和賀心。おかげは和らぎ喜ぶ心。和 賀 心と仰ってある。なるほど、そこんところをこう、言うて下さってあるわけですね。それを、科学的にその、分析すると、そういう事になる。そんなら、喜びの心というのは、長生きをする要素が出来ることも間違いないと私は思う。ね。お互い、信心して生きたくば、信心して、長生きをせよと仰るのだ。信心して、長生きに出来るわけがそこに分からせてもらう気が致します。ね。私共が、様々なときに、ね。はあー、お気付きを頂いたとこう思う、お祭り前にお気付きを頂きよると、私は実感する。ね。それはね、そこに、詫びる心が生まれてくる。そこから、神様はそれをですね、丁度、祓うて下さるような働きをしてくださる。ですから皆さん、例えばですよね。家ん中で、ね。子供が例えば、いう事を聞かんで、もやもやする。自分の思うようにならんで、もやもやする。ね。やはり、お気付きを頂きよると思わにゃいけません。同時に、それがです。ね。この、十二月の月という月は、もう、どうでも、詫びて詫び抜かせていただく月としておるのですから、そこを、詫びていくことによって、私は、祓われるおかげを受けれれるという事を、今晩は皆さんに、はっきりあの、分かって頂きたいと思うのです。ね。祓われるという事はどういうことか。いわば、ね。お詫びをしなければならない、お粗末御無礼といったようなものが祓われるということは、どういう事かと言うと、許されるということなんです。ね。許されて、そこから、清々しい心、許されて、自分の心のなかに、どっから湧いてくるか分からん喜びを頂かせて貰えるという事。ね。どうぞ、そこんところをですね。一つ、おかげを頂いて欲しいと思う。
皆さんもどうぞ一つ、私の信心に、いー、足並みを揃えてくださって、ね。十二月という月を、本気でお詫びさせて頂こう。そして、お気付けを頂く。その思いをする時に、不平の段じゃない、不足の段じゃない。言うても思うてもならぬ。今こそ、お詫びがかのうておるときだ。今こそ、お祓いを受けておるときだと思うて、お礼を申し上げる心持で行かれるように心がけなさったらどうでしょう。同時にまた、私共が、一生懸命、神様に打ち向こうての修行も、ね。これを、お詫びの印と頂かれたらどうでしょう。例えば、また、明日まで続くと言われる、なら、こうした御用でもです。ね。日頃おかげを頂いておる、お礼の印というのも有難いけれども、ここは一つ、お詫びの印に、もうそれこそ、お詫びの印に、ね。謙虚な心で奉仕をさせていただこう。ね。とても、神様が、許されんはずがない。全てをです、お詫びの印にという、私は、この月にしたい。そして、十二月三十一日の、おー、大祓い式に、十二月三十一日の、は、もう、いよいよ、一年中の、おー、お祓いを受けるとき。の日なんです。お詫びの、いわば、最終日なんです。ね。そして、あの、お祓いを受ける時にです。今年の、お粗末御無礼が、その日に、祓われるのじゃない、この十二月、ひと月かかって、本気で、えー、詫びる、ね。本気で私共が、気付かせて頂いて、改まらせて頂くと。ね。そこんところを頂いて、ね。新しい、年に、それを迎えたい。清々しい心で、そういう受けものの上に、ね。清々しい、有難いおかげを頂きたいというふうに、まあ、願っておるのでございます。
今日は、そんな訳でございましたから、私は、とうとう、親教会のお月次祭にも御無礼を致しまして、えー、本当に今日は、どうしても、御無礼の出来ない日でございましたけれども、もう、今日ばっかりは、あの、参る隙がなかったんです。ですから、あー、あしたは、早くからお参りさせていただこうと思うのですけれども、明後日は、あー、教祖大祭、親教会の教祖大祭です。まあ、ここでは、十月に奉仕しました、あのお祭りが、あー、親教会でまた、奉仕されるわけでございます。ね。どうぞ、十時半のお祭りでございますから、何時ものように、一つ、勢揃いを、久保山さんところでさせてもろうて、そして、一緒に、おかげを頂きたいと思いますから、よろしくお願いいたします。えー、それもね、まあ、一日、時間をとらなければならないことでございますから、ね。一つ、お詫びに印にお参りさせて貰う。今年最後のお詫びの印に一つ、御祭典を頂こうという事になれば、その、全部がお詫びの印に私はなると思うのです。ただ、お付き合いと。ただ、お参りせんならんからというだけでは、あー、馬鹿らしいからね。お詫びの印にというところに、そこに、内容もまた、変わってくるでしょう。心の。ね。いただきかたもかわてくるでしょう。そういうようなものを、一つ、頂いていただきたいとこう思うのです。それから、あー、十日は、いよいよ、おー、報徳祭。えー、三代金光様の、おー、五年の式念祭が併せてございます。ね。いつも申しますように、いー、報徳祭というのは、二代金光様のお祭り、四神様のお祭りと申しておりました。それを、今度は三代金光様も、おー、でございますが、ね。その、おー、報徳祭は、えー、九州のお祭りと言われております。これは、桂の、初代の、おー、先生が、ね。桂先生を九州の大恩人として、ね。九州から、全部の、おー、お供え物から一切を、こちらで整えられて、そして、あちらでお祭りを、奉仕して頂かれたことに始まったお祭りでございます。だからもう、九州のお祭り、四神様のお祭りは九州のお祭りと、まあ、いわば、定評があるようになっているところが、この頃では、これが、どうも、お株が上方のほうへいってしまっているような感じがする。あちらから、大変なお参りがあるけれども、今度は、団体参拝を、この頃から募集しておられますのに、非常にお参りが少ない。まあ、これではね、四神様にも申し訳ないが、第一、桂先生に対しても相すまん。桂先生のご信心を頂いておる、合楽においては、尚更のこと。ね。これは、どうでも、まあ、願わくばね。合楽の教会で、昔の四神様のお祭りが、御大祭がね、報徳祭が、ね。昔の、おー、九州のお祭りといわれるくらいな、ゴヒレイの元になるようなね。おかげを頂きたい。そこで私は、そのお祭りも思う。今年、何時も報徳祭は、一年中の最後のお礼のお祭りと言うて、お参りをここでは致しますけれども、ね。もちろん、御礼もありましょう。一年中の御礼もありますけれども、今日、私が、その、おー、月次祭の始まりに当たって頂いた、ね。お祓いを受けるためのお祭り。言うならば、お詫びのお礼。お詫びのお祭り。お詫びの御本部参拝。今年最後の、お詫びの、おー、御本部参拝をさせていただこうという風に神様にお願いしておるのでございます。どうぞ、あの、申し込んでない、あそこに書いてないお方達は、どうぞ、お参りの方は、早く、うー、申し込んで頂きますように、今度はあの、汽車でございますから、楽です。どうぞ、よろしくお願いいたします。どうぞ、返す、くれぐれも、三日の御大祭。明日、明後日、よろしくお願いいたします。ね。それから、あー、十二月の十六日は、もう、今度は教祖大祭に引き続く、もう、よその教会と家とは引き続きますけれども、えー、十六日が、また、ここの報徳祭になります。どうぞよろしくお願い致します。